ページに訪問して下さり、ありがとうございます。

はじめまして。
私の名前は、下川 明美といいます。

礼拝に出席しているクリスチャン専門の結婚相談所をしています。


年間20組以上のカップルが婚約・結婚しています。
そして、クリスチャンの婚活についてのブログも書いています。


結婚のこと以外の話がどうも書きにくくなったので、
それ以外の話はここで書くことにしました。

どうぞよろしくお願いします~。

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2011年10月28日金曜日

旧約の罪の赦しの儀式は、自力救済とは違うのが新約と一貫している。


レビ記1章を読んでいる。
レビ記って、法文書みたいで、無味乾燥な感じをしていたけど、
今年になって、3回目読んでみて、ちょっと気持ちが変わった。

罪を赦してもらうためにいけにえを捧げる方法が、
まず、最初に書かれている。

途中でレビ記を読むのを挫折しても、最初のこの罪を赦してもらうための
いけにえを捧げる方法だけは、とりあえず読むことになるw

神様は、粋な構成にしてくれてるんだなーと思った。


レビ記1:2
もし、あなたがたが主にささげ物をささげるときは、だれでも、家畜の中から牛か羊をそのささげ物としてささげなければならない。


今まで完全にスルーしていたんだけど、家畜。

捧げるものは自分と無関係なものではなくて、自分と関わりをもって
生きてきた動物なのだ。

私は、この時、イエス様が私たちに言う、「友よ」という言葉を思い出した。
イエス様は私たちと関わりを持ってくれている中で、十字架にかかってくださった。

旧約聖書の中での罪の赦しも、そのへんで買ってきた動物をぽーんと
捧げるのではなくて、苦楽を共にして、関わってきた家畜を捧げることを
求めている。

そこに、旧約と新約のリンクを私はすごい感じた。


で。牛や羊を捧げる場合は、殺すときに血が出てくる。
その血を祭壇の周りに注ぐ。

血っていうのは、命だ。
命を完全に奪うってことがこの注ぐことですごいリアルになる。


自分と関わったものが身代わりになって、血が注がれる。

…イエス様の十字架と全くおんなじで、びっくりする。


レビ1:9
全焼のいけにえを焼いて煙にする


体が、完全になくなるまで焼き尽くす。
イエス様が墓から消えたのと少し似ている。

とにかく、共通点がかなりある。


そして、レビ記を見ると、
ユダヤ人たちは、この罪の赦しの儀式の大前提として、
「自分の力では自分を救うことが出来ない」というのがある。


レビ1:4
その人(罪の赦しのために捧げ物をした人)は、全焼のいけにえの
頭の上に手を置く。
それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。


頭の上に手を置く、というのは、自分の身代わりになることを
意味した。
これって、まさにイエス様の原型。

これをしたから、自分で自分をすくったって発想では全くないのだ。
「これをしたら救われる」という行為で救われるってこととは、
旧約のユダヤ人たちも全く思っていない。

どうしようもない自分が、家畜が自分と引き換えに犠牲になることで、
罪から救われる。

…まさに、イエス様の十字架と同じ大前提。


私は、レビ記を読んで、
イエス様がなぜ地上に来られたのかの一つの理由をすごく考えていた。

レビ記のこの罪のあがないの最大の弱点は、
やはり、「これをしたら救われる。」と形式主義に陥っていくこと。
レビ記に書かれているのは、行動規範だから、
表面的になぞっちゃうと、「ほーら救われた」とかになる。

実際に、このレビ記もどんどん形骸化して、
頭に手を置く以外、全部、祭司が「あとやっときますわぁ。」って
さささってやるようになったみたいだし。


神様がイエス様を送らなきゃ!って思った気持ちが、
なんとなく、レビ記を読んで少し感じた。

私たちが何かをしたから、こういう実績があるから、
こういう行動をしたから救われるっていうふうにならないように、
ただ、一方的にイエス様が十字架にかかってくださった。
神様は、ここまでしてまで、私たちとの関係を求めているのだと。







クリスチャン結婚相談センターペテロの涙

2011年10月26日水曜日

パウロから学ぶ、伝える力。




いま、TwitterとかFacebookとか、いろいろ伝えるツールがあるし、
いろいろ読んだりもしますよね。
その中で、「誤解」とか「誤読」っていうことがコミュニケーションを
妨げてしまったり、違う方向に受け取られて悲しい思いをしたりとか、
そういうことがあるかもしれません。

また、違った考えの人が明確に「ヽ(`Д´)ノプンプン」ってなって、
なんかおちこんだりとかってこともあるかもしれません。
でも、そこから学ぶこととかも結構あって、やっぱり書くということは
すごい大事な事だなと日々実感していたり。

いま、コリント人への手紙Ⅱを通読していて、
パウロの伝える力にものすごく感動しているところです(@@)うるうる。


コリントっていうのは、貿易が盛んな都市。港もあり。
…ただ、水際っていうのは、やっぱり道徳的に壊れたことが入ってきやすい。
すごく性的にも道徳的にも乱れた街のうえに、
コリントの教会のクリスチャンもその影響もめっちゃ受けてたという背景があります。

コリントの商業組合では、他宗教の行事があり、
それが神殿娼婦とのパーティみたいなのだったりとか、
とにかく、すごい大変だったみたいです。
それに参加しないと商売が難しくなるとか、現実にものすごい
生活に密着した問題もありました。


一方、パウロって超真面目で、品行方正な人。
キリストを信じてから、誰の目から見ても、まっすぐでそして清い生活を
送っていたことは誰の目から見ても明らか。


…パウロとコリント教会ってあまりにもコントラストがきつい。
黄と黒ぐらいきつい。(踏切の色みたいなかんじですね)


そこにパウロは「うわっ、コリントの教会やばい。なんとかしなきゃ」って思って、
コリントに手紙を出した。

それがコリント人への手紙Ⅰなんですね。


実は、コリント人への手紙っていうのは、3通あるんだけど、2通目が
見つかっていない。
コリント人への手紙Ⅱは、本当は3枚目の手紙。


2通目の証拠はちゃんと、聖書にあるのです。

コリント人への手紙2:8−9
あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、
私はそれを悔いていません。
あの手紙がしばらくの間であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、
悔いたけれども、


今は喜んでいます。あなたがたは神のみ心に添って悲しんだので、私たちのために何の外も受けなかったからです。



2通目は涙の書簡、と言われています。
でも、2通目の内容は発見されていないから、もちろん聖書にもない。

で、私は3通目に1通目にはないパウロの書き方を見ました。

2通目が、涙の書簡になってるってことは、
1通目がちゃんと伝わっていないということ。


3通目で、パウロは1通目以上に伝わるってことをすごい意識しています。

さきほど書きましたが、パウロとコリントの人々は
生き方が全然違っていた。コントラストがキツかった。

品行方正な人が、ヤンキーのためを思って、
正しいことを言う時、普通聞き入れてもらえない。

それは何かっていうと、責められている感じがするから。
「あーあー、あんたはよいこちゃんですよねー。
 どーせ、あたしは不良だよ〜」って反発される。

責めるつもりで言っていなくても、パウロの品行方正さが、
責めるっていう印象を強くさせてしまう。


だから、パウロはこういうふうに語ってる。

コリントⅡ 7:3
責めるためにこういうのではありません。
前にも言ったように、あなたがたは、わたしたちと共に死に、
ともに生きるために、私たちの心のうちにあるのです。

つまり、私たちは上下関係ではなく、運命共同体。
そして、私たちはあなたがたを心に大事にとめているってことの
前提を惜しげもなく書いている。


そして、その前提に基づいて、どうあるべきかを書いていくうちに
ヒートアップしていくパウロ。

もう一度、7:12で、コリントの人たちに誤解が起こらないように、
繰り返し書いている。

ですから、私はあなたがたに手紙を書きましたが、
それは悪を行った人のためでもなく、その被害者のためでもなくて、
私たちに対するあなたがたの熱心が、神の御前に明らかにされるためで
あったのです。

誰が悪いとか、悪く無いとか責めるために書いているのではなくて、
神様の前で、私たちがあなた達を大事にしているし、愛しているんだよ!って
いうことが前提で書いているんだってこと。

ものすごく受け取る側に気をつけて書かれている書簡だなって
伝わって来ました。


このパウロの姿勢から、私も本当に学ばなきゃいけないって
今日は通読をしていてすごく感じました。

そして、この手紙が本気で愛を持って、そして
ただ、神様のみことばを伝えるために書かれたからこそ、
受け取る側に愛が伝わるように表現していることを知ることで、
手紙が生きているっていう感覚がすごく湧きました。


下川 明美

クリスチャン結婚相談センターペテロの涙

2011年10月13日木曜日

旧約聖書の視点から、新約聖書をみると、旧約も読みやすくなる。


旧約聖書を読むのが苦手っていう人は結構いると思う。
実は、私もすごい苦手だった。

まず、旧約聖書を読むモチベーションが全然あがらないのだ。

なぜ、モチベーションがあがらないのか。
それは、自分にとって「読む理由」が全く見つからないからだ。


読まない理由は見つかる。

・読んでも、まず意味がわからない

・出エジプト記の後半や、レビ記など、規則の羅列が退屈で
時代背景もよくわからない。


読まない理由のほうが強烈だから、読みたくなくなる。
さらに、読む理由がわからない。


では、一歩旧約聖書から目をそらそう。

旧約聖書から見た、新約聖書とは何かっていうことを見てみるのだ。


2つの観点から見ることができます。


一つは、契約更改の観点。

もう一つは、新約聖書は、旧約聖書とどういう関係にあるのかという観点


それでは、契約更改の観点から。


マタイの福音書 27:50-51


そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。


すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。


ここで、神殿の幕っていうのは、聖所と至聖所を仕切る幕。
至聖所というのは、聖所の一番奥の所で、

年に一度だけ、しかも大祭司しか入れなかった場所なんです。

重要なのが、そこで民の罪のためのいけにえが捧げられていたってことです。
いけにえは、動物の血とともに捧げられていました。


罪の赦しをいただくための旧約のルールです。



そこの仕切る幕がば====んって裂けちゃったらどうなるのか。


幕は当然地面に落ちます。

すると、どうなりますか。

仕切っていた場所が、丸見えスケルトン状態になるんです。


今まで年に1回大祭司だけが入れた特別な至聖所がスケルトンで
機能停止状態。

この契約は更改されたのです。
ちなみに、更改というのは、前の契約を破棄して、新しい契約を結ぶということです。


よく野球選手の年棒の契約更改とかってニュースになりますよね。
あれです。去年と同じ年棒で働けるとは限らないですよね。
それは、前の契約が破棄されたからです。



そのかわり、イエス様の血の恵みを受けた人は、
イエス様の血が捧げられたおかげで、至聖所がスケルトンになったので、
誰でも神様の至聖所に入ってOK!ってことになったわけです。




これが、新約ルール!!!


好奇心があったり、理屈っぽいタイプの人は(私もその一人)
前の契約がいったいどんなことになっていたのか知りたくなりませんか?


私は前の契約がめっちゃ知りたくなりました。
それで、旧約聖書読みたいってやっぱり思いました。



2つ目の観点、旧約聖書と新約聖書の関係を見ていきましょう。


新約聖書書いた当時って、旧約聖書しかない。
しかも、契約更改されてる(@@!
さらにさらに、新約ルールを言えば言うほど、迫害される。

→イエス様の十字架が風化の危機にあった。


だから、イエス様が死んで急迫していく中で、

旧約聖書を新約ルールに変わった今、
どのようにしてとらえるべきかについての解説

イエス様が十字架にかかって復活したっていう事実が、
どんだけ私たちの人生や命に関係しているのか新たな記述が必要になる。

イエス様が旧約で言われているメシヤだってことを旧約から解説した
新たな情報シェアが必要


→つまり「新しいルール」に私たちが従うために書かれた。

新約聖書の新しいルールを理解するためには、
古いルールもどうなっているのかの確認が必要。


それは、古いところと新しいところがどう違うのか、
そして、新しくなったのは、なぜなのかについても理解し、知るためにも、
古いルールもきちんと理解したほうが理解が深まる。


例えて言うなら、
エクスプローラー6から7になったときに、タブ機能という新ルールができた。

今までウィンドウをたくさん開いて、エクスプローラーだらけになった経験はないだろうか。
下のメニューバーがネットのページで埋め尽くされたりとか。

でもタブ機能は、そういう不具合を解決した。
ひとつのウィンドウだけで、タブを使ってたくさんのページを広げられる。
ちなみに、私はいま10ページぐらい開いている。(開きすぎ)

このタブのありがたさは、最初からタブを使っている人にはよくわからない。
でも、タブがなかった時代を知っている人には、どんだけありがたいのか、
語り尽くせないのです。

深く理解するためには、古いルールも知っておく必要がある。


そういう感じでとらえてもらえるとわかりやすいです。



まずは、新約聖書を深く理解するために、古いルールが書かれている旧約聖書を
読んでみるっていうことで、理由を見出してみてもいいのではないかと思います。



ちなみに、私は旧約聖書はリビングバイブルという子供向けに翻訳された聖書を
読みました。


中古価格
¥4,750から
(2011/10/13 11:10時点)



ぜひ、秋の夜長にトライしてみてはいかがでしょうか。
私も、今年3回目の旧約通読に10月半ばにトライする予定です。
(いま、新約3回目を読んでいるところです)




クリスチャン結婚相談センターペテロの涙

2011年10月12日水曜日

聖書の最終回ってどうなっているのかってすごい重要。


聖書の最終回って、何か知っていますか。
「ヨハネの黙示録」です。

去年の12月、ツラノから出ているディボーションテキストの、
リビングライフが黙示録全編を扱っていました。

ところが、読んでも読んでも、いろいろな解釈が入り組んでいて、
全然わからないまま年が明けてしまいました。


「おーい、聖書の最終回、ちっともわからないぞー」という2011年幕開け。


最終回のわからないドラマって、見た気がしないですよね。
だから、私も最終回の黙示録の意味がわからないまま、聖書を読んだ気がしないし、
福音書でイエス様が復活と再臨の話をするときに、

「あー、黙示録わかれば、もっと理解できるかもしれへんのに」と
歯がゆい思いをしました。


神様は、その心の叫びに応えてくれました。


9月にカルバリーチャペル西東京のの山東先生の
黙示録メッセージ全編を手に入れたことでした。


http://www.calvarywesttokyo.com/



黙示録の内容でわかることは大きく5つ

・私たちクリスチャンは3章あたりで携挙される。

・携挙されたあとの世界がどうなるのかが書かれている。

・携挙されたあとも、キリストを信じる人が起こされ、救われる人もいる。

・サタンが暴れているのは、神様の意思であり、
早くサタンを滅ぼそうとすると、私たちも一緒に滅びちゃうから、
イエス様を地上に送ったこと


補足;
サタンが暴れているのは、神様の意思っていうのは、少し語弊があって、神様が良い事だとしているわけじゃなくて、私達自由意志を与えた人間を救うためには、サタンを根絶やしにするよりも、私達を優先させたってこと。そこに神様の愛があるという意味です。



・神様は最後の最後まで人間が救われることを望んでいること


クリスチャンが携挙後の世界を黙示録で理解しなければならない理由について

・私達が神様を信じていることがどんなに価値が高いのかを理解させるため

↑例えば、宝くじをもらったとします。
発表前はそのへんにほったらかしにしても、当選したら同じ扱いするか。
私たちは宝くじの当たりくじ以上のすごい神様を信じている。
これが、どんだけ価値が高いのかについて知るため

・価値の高さを知って、「今日」私達がどう生きるべきなのかを瞬間瞬間考えるため


…という話題満載です。

この黙示録全編メッセージはなんと24時間以上あります。


黙示録メッセージ全27巻入りディスク mp3、(カルバリーチャペル西東京)今なら¥1,080- 送金手数料は無料の郵便振込用紙を同封します。 ご注文は、 
katsumisanto@calvarychapel.com 


山東先生まで、配達先住所をください。 先着20名で締め切り


全27巻一昨日に聞き終わりました。
ありえない価格です。この価格は全額カルバリーチャペル西東京の献金として
用いられます。

ぜひ、みなさんも聞いてみてくださいね。


2011年10月11日火曜日

誰になりたいと思うのかは、自分を100%変えてしまう。


私は、クリスチャンの結婚の仕事をしていて、
カウンセリングは主に、銀座で行なっています。

それで、よく三省堂の有楽町店に行って、面白そうな本をチョイスして、
移動の間や、待ち時間に読みます。

この本は、一日の移動時間だけで読んだ1冊でした。


新品価格
¥1,365から
(2011/10/11 23:13時点)


著者は、ギリシャ留学をしていたということで、ギリシャやローマの歴史に詳しく、
本書の中で、ギリシャ彫刻が芸術的にローマ彫刻よりも優れている話を書いている。

ギリシャ彫刻よりも、ローマ彫刻が流行った時代のほうが後で、
技術的にも発達しているはずなのに、芸術としての評価はギリシャ彫刻のほうが上。

もちろん、芸術は技術で計れないという話にもなるけれど、
著者は、別の観点からこの事実を見る。


それは、彫刻を通して表そうとしていたモデルである。

ギリシャ彫刻が表そうとしていたのは、「神」だった。
ちなみに、この神はギリシャ神話の神々で、クリスチャンが信じる神様ではない。

でも、彼らはこの世を支配する神がいると信じ、
その神を表現しようとしたモチベーションは高いし、
神は見えないから、どこまでも表現しようとしてもゴールがなく果てしない。


一方、ローマ彫刻は、当時の権力者を表そうとしていた。
つまり、人間である。目に見えて有限な人間を表現するだけ。
…そこに想像力もへったくれもない。
ただの権力誇示に使われる目的の物。
ゴールは見たままである。


つまり、無限のものか、有限のものかで、芸術的な評価が雲泥の差になる。


私は、これを読んだ時に、

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、
鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、
主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」                
  IIコリント3:18

を思い出しました。


私たちクリスチャンが目指すのは、主イエス・キリストであり、
無限の存在だ。

そこが不可能の世界っていう意味ではなく、
ギリシャ彫刻師のように、到達できないものを自分を通して表現していくことが
とても大切だと私は感じました。

到達できない、無限だから諦める。

芸術で言えば、ありえない。私たちが生きることはアートよりも素晴らしいことだ。


一方、ローマ彫刻師のような生き方はまるで、AKB48の誰かさんを目指すような
生き方かもしれない。(私よりも年齢が半分かそこらの子を真似するのはオカルトだ)


少し前に流行ったカツマーもそうかもしれない。
勝間さんの真似しても限界があるというか。


私たちは目指すものが神様であるか、神様でない誰かであるのかで、
人生の大きさが変わるし、自分も変わる。


主を目指すことは、人生というキャンバスに神を表現するようなものかもしれない。



クリスチャン結婚相談センターペテロの涙

下川 明美