レビ記1章を読んでいる。
レビ記って、法文書みたいで、無味乾燥な感じをしていたけど、
今年になって、3回目読んでみて、ちょっと気持ちが変わった。
罪を赦してもらうためにいけにえを捧げる方法が、
まず、最初に書かれている。
途中でレビ記を読むのを挫折しても、最初のこの罪を赦してもらうための
いけにえを捧げる方法だけは、とりあえず読むことになるw
神様は、粋な構成にしてくれてるんだなーと思った。
レビ記1:2
もし、あなたがたが主にささげ物をささげるときは、だれでも、家畜の中から牛か羊をそのささげ物としてささげなければならない。
今まで完全にスルーしていたんだけど、家畜。
捧げるものは自分と無関係なものではなくて、自分と関わりをもって
生きてきた動物なのだ。
私は、この時、イエス様が私たちに言う、「友よ」という言葉を思い出した。
イエス様は私たちと関わりを持ってくれている中で、十字架にかかってくださった。
旧約聖書の中での罪の赦しも、そのへんで買ってきた動物をぽーんと
捧げるのではなくて、苦楽を共にして、関わってきた家畜を捧げることを
求めている。
そこに、旧約と新約のリンクを私はすごい感じた。
で。牛や羊を捧げる場合は、殺すときに血が出てくる。
その血を祭壇の周りに注ぐ。
血っていうのは、命だ。
命を完全に奪うってことがこの注ぐことですごいリアルになる。
自分と関わったものが身代わりになって、血が注がれる。
…イエス様の十字架と全くおんなじで、びっくりする。
レビ1:9
全焼のいけにえを焼いて煙にする
体が、完全になくなるまで焼き尽くす。
イエス様が墓から消えたのと少し似ている。
とにかく、共通点がかなりある。
そして、レビ記を見ると、
ユダヤ人たちは、この罪の赦しの儀式の大前提として、
「自分の力では自分を救うことが出来ない」というのがある。
レビ1:4
その人(罪の赦しのために捧げ物をした人)は、全焼のいけにえの
頭の上に手を置く。
それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。
頭の上に手を置く、というのは、自分の身代わりになることを
意味した。
これって、まさにイエス様の原型。
これをしたから、自分で自分をすくったって発想では全くないのだ。
「これをしたら救われる」という行為で救われるってこととは、
旧約のユダヤ人たちも全く思っていない。
どうしようもない自分が、家畜が自分と引き換えに犠牲になることで、
罪から救われる。
…まさに、イエス様の十字架と同じ大前提。
私は、レビ記を読んで、
イエス様がなぜ地上に来られたのかの一つの理由をすごく考えていた。
レビ記のこの罪のあがないの最大の弱点は、
やはり、「これをしたら救われる。」と形式主義に陥っていくこと。
レビ記に書かれているのは、行動規範だから、
表面的になぞっちゃうと、「ほーら救われた」とかになる。
実際に、このレビ記もどんどん形骸化して、
頭に手を置く以外、全部、祭司が「あとやっときますわぁ。」って
さささってやるようになったみたいだし。
神様がイエス様を送らなきゃ!って思った気持ちが、
なんとなく、レビ記を読んで少し感じた。
私たちが何かをしたから、こういう実績があるから、
こういう行動をしたから救われるっていうふうにならないように、
ただ、一方的にイエス様が十字架にかかってくださった。
神様は、ここまでしてまで、私たちとの関係を求めているのだと。
クリスチャン結婚相談センターペテロの涙
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