私は、クリスチャンの結婚の仕事をしていて、
カウンセリングは主に、銀座で行なっています。
それで、よく三省堂の有楽町店に行って、面白そうな本をチョイスして、
移動の間や、待ち時間に読みます。
この本は、一日の移動時間だけで読んだ1冊でした。
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著者は、ギリシャ留学をしていたということで、ギリシャやローマの歴史に詳しく、
本書の中で、ギリシャ彫刻が芸術的にローマ彫刻よりも優れている話を書いている。
ギリシャ彫刻よりも、ローマ彫刻が流行った時代のほうが後で、
技術的にも発達しているはずなのに、芸術としての評価はギリシャ彫刻のほうが上。
もちろん、芸術は技術で計れないという話にもなるけれど、
著者は、別の観点からこの事実を見る。
それは、彫刻を通して表そうとしていたモデルである。
ギリシャ彫刻が表そうとしていたのは、「神」だった。
ちなみに、この神はギリシャ神話の神々で、クリスチャンが信じる神様ではない。
でも、彼らはこの世を支配する神がいると信じ、
その神を表現しようとしたモチベーションは高いし、
神は見えないから、どこまでも表現しようとしてもゴールがなく果てしない。
一方、ローマ彫刻は、当時の権力者を表そうとしていた。
つまり、人間である。目に見えて有限な人間を表現するだけ。
…そこに想像力もへったくれもない。
ただの権力誇示に使われる目的の物。
ゴールは見たままである。
つまり、無限のものか、有限のものかで、芸術的な評価が雲泥の差になる。
私は、これを読んだ時に、
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、
鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、
主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
IIコリント3:18
を思い出しました。
私たちクリスチャンが目指すのは、主イエス・キリストであり、
無限の存在だ。
そこが不可能の世界っていう意味ではなく、
ギリシャ彫刻師のように、到達できないものを自分を通して表現していくことが
とても大切だと私は感じました。
到達できない、無限だから諦める。
芸術で言えば、ありえない。私たちが生きることはアートよりも素晴らしいことだ。
一方、ローマ彫刻師のような生き方はまるで、AKB48の誰かさんを目指すような
生き方かもしれない。(私よりも年齢が半分かそこらの子を真似するのはオカルトだ)
少し前に流行ったカツマーもそうかもしれない。
勝間さんの真似しても限界があるというか。
私たちは目指すものが神様であるか、神様でない誰かであるのかで、
人生の大きさが変わるし、自分も変わる。
主を目指すことは、人生というキャンバスに神を表現するようなものかもしれない。
クリスチャン結婚相談センターペテロの涙
下川 明美

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